Update:May.20/2000

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いすゞ117クーペ2000XE(昭和55年式)
■ 誕 生 ■

イタリアの著名なカロッツェリアであるギア社と提携したいすゞ自動車は、昭和41年3月のジュネーブ・モーターショーにて、1台の衝撃的なモデルを出品します。
「ギア・いすゞ 117SPORT」と呼ばれるこのプロトタイプは、今では自動車からパスタの形までデザインするという有名デザイナー、G.ジウジアーロが、ギア社に移籍した直後の若き日に、初めて手掛けたものでした。
彼が会心の作として送り出したこのクルマの持つ流麗なスタイリングは、イタリア国内でも賞を獲得するほどでした。

いすゞ自動車が、デザインの研究用としてギア社に依頼したと言われる117SPORTは、フローリアンの名で発売された、セダンモデル「いすゞ117」の2ドアクーペ版として発表されました。

ギア・いすゞ117SPORT


発表当時は量産化を否定していた いすゞでしたが、ギア社のプロトタイプにしては現実的な面構成の外観や4シーターの採用など、それは量産化を予感させるに十分な内容でした。
(右は117SPORTのコクピット)

それから2年が経過した昭和43年12月、市販化はないのでは?とさえ囁かれ始めていたこの頃、満を持してデビューを果たした172万円という高価な国産車。それが「いすゞ117クーペ」でした。


いすゞ117クーペ
いすゞ117クーペ


当時のトヨタの高級車、クラウンスーパーデラックスの112万円を考えれば、その破格さがおわかりでしょう。
それまでの国産車にはない流麗な外観を持つこの2ドア・スポーツクーペは、発売と同時に一躍脚光を浴びたのでした。

曲線主体のボディーは、当時、量産が困難であるとの声が多かった中、いすゞは、厳格な生産管理のもと、その製造工程の多くを半手作業に頼るという方法を選択したのでした。
昭和48年初頭まで続いたこの時代のモデルは、「半分手造り」の様だった事から「ハンドメイド」と呼ばれています。
ただ、117クーペについてのみ「半手作業」という表現を使う事が適切かどうかは、判断が難しいところです。何故なら当時の自動車生産ラインは皆、手作業に頼る箇所が存在していたからです。
私は、徹底した品質管理による月産わずか五十台という生産台数が、117クーペだけに「ハンドメイド」という「称号」を授けたのだと思っています。
同時に、この様な生産効率では172万円はやむを得ない価格だったのかもしれません。

しかし、外観の魅力だけではなく、0→400mが16.8秒という直4DOHCパワーユニットは、当時のスポーティー車にも決して引けを取らない内容でした。

History of The Catalog Cover

昭和46年のカタログ表紙 昭和47年のカタログ表紙 昭和48年のカタログ表紙 昭和49年のカタログ表紙  

1971

1972

1973

1974

 
昭和51年のカタログ表紙 昭和52年のカタログ表紙 昭和53年のカタログ表紙 昭和54年のカタログ表紙 昭和55年のカタログ表紙
1976 1977 1978 1979 1980
Special Thanks to ; Mr. H.Suzuki & Mr. M.Shimokawa
 

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