Update:Jun.18/2001

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昭和52年12月以降の角目モデル
■デザイン■
 
117クーペがデビューしたのは昭和43年。それまでにも、イタリアの工房と提携し、デザインを依頼した例は日本国内でも幾つかあり、一種のブームとも言うべき現象となっていました。しかし、当時いすゞの提携先であったイタリアのギア社に籍を置くジョルジェット・ジウジアーロがデザインを担当したこの117クーペの様な、これまでの国産車には類を見ない滑らかな曲線のボディは、同時に板金技術の難しさをも示すものでした。


ギア社のデザインスケッチ


外国製乗用車(ヒルマンミンクス:英国)のノックダウン生産からスタートしたいすゞ自動車としては、フローリアンやベレット等の純自社製乗用車がようやく軌道に乗りつつあったまさにこの時期、国産乗用車のイメージアップに繋がる、エポックメイキングなデザインの高性能車が是が非でも欲しかったのです。それが例え赤字採算であったとしても
この開発プロジェクトの成功は、同時にいすゞが社運をかけたフラッグシップカーの誕生をも意味するものでした。
しかし、当時の国内の技術水準で、この流線型ボディを量産ベースに乗せる事は、非常に困難を極めるものだったのです。
そんな中、いすゞ自動車が板金・ボディ整形の技術指導顧問として招いたスペシャリストが、イタリアのカロッツェリア職人ジョルジョ・サルジョットでした。

Giorgio Sargiotto
いすゞ時代の一枚。後に、鈴木や三菱自工でも手腕を振るった(※)


サルジョットがデザインから製作までを手掛けたフィアットの限定車"Geisha"。
残念な事に変色していたカラー写真(左上)を可能な限り復元してみると、どうやらボディカラーはマルーンの様である(※)

サルジョットの初来日はプリンス自動車に招かれた昭和36年(ミケロッティがデザインしたスカイラインスポーツの技術指導)でしたが、いすゞの依頼により再来日した昭和41年、彼を待っていた仕事とは、奇しくも業界ではライバル関係にある、23歳下の新進デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロが手掛けたボディを「現実のものとする事」でした。
しかし、それでもサルジョットはあくまでも職人に徹し、情熱的にいすゞの技術者達を指導しました。
それは同時に、自分の仕事に対する自信と誇りが、周囲の雑音を消し去った瞬間でもありました。(「彼は、自分で製作に携わったクルマを所有した事が生涯一度も無かった」という逸話からも、彼の職人としてのプライドの高さがわかるでしょう)

またサルジョットは、いすゞをはじめとした日本の技術者達の、自動車製造に取り組む真剣な姿勢にも大いに感銘を受けたと周囲に語っており、ようやく漕ぎ着けた117クーペの誕生は、彼らの相互の信頼関係が実を結んだ結果と言えるのではないでしょうか。

ハンドメイドから量産モデルに移行後に、いすゞの生産ライ
ンを視察に訪れたサルジョット。1973年頃と思われる(※)

机上の空論を形にすることの難しさは語るまでもありませんが、120psのパワフルエンジンと200km/hの高速走行に耐えうるシャーシーの上に着る"服"は、ジウジアーロと、そしてもう一人のイタリア人、サルジョット無くしては日の目を見ることがなかったのです。
敢えて二人の関係を服飾業界で例えるなら、「ファッションデザイナー」と「テーラーメイドの縫製職人」という事になるのでしょうか。
いすゞ系列のボディ製造会社高田工業にて。
ベレットの試作ボディを製作中。(※)

同じく高田工業の試作ボディ製作風景(※)

なお、"職人"ジョルジョ・サルジョットは、初来日以来、大の親日家としても知られており、1970年(昭和45年)に日本人女性と再婚して一女を授かりましたが、晩年、生まれ故郷で最後を迎えるためイタリアに渡り、1999年4月、永遠の眠りにつきました。

注:文中に掲載の写真(※)は、サルジョット氏の忘れ形見であるジョヴァンナさんのご厚意により提供して頂いたものです。従って、上の6枚の写真(※)については、転載お断りいたします。


結果として、二人のイタリア人といすゞ自動車の技術の結晶である117クーペは、昭和56年前期に生産終了するまでの13年間、フルモデルチェンジを1度も行いませんでした。 
 
4年に一度のフルモデルチェンジで初めて採算が合うと言われる国内の自動車業界で、この事実は、トヨタのセンチュリーや三菱のデボネアと同様に、国産乗用車有数の長寿記録として歴史に刻まれています。しかも、これだけの長い期間販売されながら、フルモデルチェンジを行わないまま幕を閉じたクルマは極めて稀な存在でした。  


昭和54年12月に追加された特別仕様車「giugiaro」



「giugiaro」の室内
この裏には、117クーペをデザインしたジョルジェット・ジウジアーロ自身が、この車のデザインをとても気に入っており、何度かニューモデルのデザイン依頼を打診したいすゞ自動車側に対して、首を縦に振ろうとしなかったという事実があると言われています。 
これは、彼の自己の若き日の傑作に対する思い入れの深さを表していたのではないかと思います。

結果的に、117クーペの後継と言われるピアッツァは、車名自体を変えることで、再びジウジアーロの手による「(彼の頭の中では)別の車」として世に送り出されました。(もっとも、私自身はリア・ピラーの形状に117クーペの面影を垣間見ることができると思っていますが。)  
10年先でも色褪せない、と言われたピアッツァの先進的なフォルムは大きな衝撃でしたが、その反面、動力性能的に極めるでもなく、かといって快適な居住性・静寂性を持った6気筒セダン車にも対抗できない「ラグジュアリークーペ」という中途半端な位置付けが、当時のニーズからズレてきていたのも否定は出来ません。  
これは、末期の117クーペが抱えていた問題の本質そのものであり、ピアッツァは後継車という看板と共に、そのままこれを引き継いでしまったのでした。  
FFジェミニの大ヒットで、巻き返しを図ったかに見えたいすゞでしたが、私が思うに、「自社の技術の粋を集積したフラッグシップカーの不在」が結局は乗用車部門撤退の引き金になったのではないでしょうか。勿論、ディーゼルが得意のいすゞに、「Ecology」 という時代の風潮が逆風となって立ちはだかったのも事実ですが。  

117クーペが、最初に外観の変更を行ったのは、板金技術の向上により、月産五十台から月産千台への大量生産化に踏み切った昭和48年のことです。  
しかしこれは、モデルチェンジと言うよりは、量産工程上の技術的な問題がその理由だったように思います。  
結局車体は、全体的にエッジの効いた印象に変わり、バンパー、テールランプ、フラッシャーランプなどが微妙に位置や形を変えました。  

初期型モデル 中期型モデル 後期型モデル
初期型
(昭和43年〜)
中期型
(昭和48年〜)
後期型
(昭和53年〜)

ハンドメイド

量産丸目

量産角目

発売当初の117クーペ(ハンドメイド)では、全体にクロームメッキを施した一体成型バンパーを採用し、フラッシャーランプはバンパー上に配されました。
昭和48年の量産タイプ移行後も、当初は一体型バンパーで生産されていましたが、コストダウンを図るため、まもなく両サイドをリベット止めで分割した3ピースバンパーに変更されました。また、量産丸目ヘッドライトモデルでは、フラッシャーランプはスモールランプとのコンビネーションタイプ(セパレートバルブ)となり、取り付き位置はバンパー下に変更されました。
昭和52年の12月には、117クーペにとって外見上の最大の変更が行われました。 
 
内外で賛否両論が展開された、ヘッドライトの形状変更。  
これによって丸型4灯が角型4灯に変更となり、バンパーは、頂部のみクロームメッキが施されたプロテクテッド・ラバーバンパー(ラバー部はゴムではなく材質は軟質塩化ビニール)となりました。大きな特徴としては、上下分割構造とすることによりメッキ部を頂部のみながら、分割構造からハンドメイド発売当初の一体成型に戻し、コンビネーションランプがバンパー内に埋め込まれた一体構造となりました。

私個人としては丸目も角目もどちらも好きです。ただ、バンパーは、やはりオールメッキタイプのバンパーの方が好きですし、軽量化・コストダウン・組立性向上を主眼に置いた変更とはいえ、量産角目で採用された樹脂成型(プラスティック)フロントグリルの粗末さはどうしても気に入りません。
 

流行は繰り返す、とよく言われますが、世がクルマに求めるものがシャープな外観とターボ搭載車に移行していた昭和50年代半ば過ぎ、117クーペに対する世間の反応は冷ややかでした。  
当時の代表的なクルマとして思い浮かぶのは、910ブルーバードやマツダ323ファミリア、そして三菱ランサーターボなど。現在ではこれらのクルマも以前の面影もないくらい、角が取れたスタイリングに変貌しています。  
つまり、生き残るためには形を変えなければならなかったのです。極論を言えば、117クーペは同じ名で生き残ってはいけなかったのかも知れません。  


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