それから約半年もの間、私はクルマ無しの生活を強いられました。
何故なら、私の求める昭和55年以降のXE(5MT車)が、なかなか見つからなかったからです。
販売台数が急激に落ち込んだ昭和55年以降の、しかも、実質70%以上がAT車※と言われる最上級グレードのXEの5速マニュアル車を見つけるのは至難の業でした。
※人伝に聞いた話なので、この値の信憑性については疑問符が付きます。
というのも、2005年から継続実施しているアンケートでは、117クーペ全体ではMT車が圧倒的に多く、XE-Ltdを含め、サンプル数の最も多いXEにだけAT車が集中しているとも言い切れないような結果が出ているからです。 |
私が55年以降のXE(5MT)にこだわったワケ
1.ホントの最終モデルが欲しかった。
前期で生産中止となった56年車となると神がかり的な求車活動を必要とすると考え、せめて最後のマイナーチェンジモデルが欲しかった。
2.私にとってエアコン・パワステが必須であった。
暑がりで寒がり、しかも、オモステのXGで背骨を痛めた経験のある私にとっては、欠くことの出来ない代物であった。(この条件だけであれば53、4年車でもOKであった)
3.フューエルリッドオープナー
横着者のニセエンスーである私は、GSでいちいちエンジンを止めて鍵を渡す、という行動が嫌だった。(見栄っ張りな面も否定できない)
4.私はシフトチェンジが楽しい。
シフトストロークが長く、移動が水平的な117のマニュアルシフトレバーは、大好きである。(時々愚れて硬くなるが・・・・)
5.本当は丸目が好きだ。
実はパワステさえ付いていれば、52年以前のモデルでも良かった。しかし、残念ながら存在しないのであった。
6.黒のビニールレザー張りの内装は、もう嫌だった。
全面モケット張りの内装は、XEか、末尾に「ラグジュアリー(Luxury)」の頭文字 ”L”が付くモデル(XT-L,XD-L) にしか採用されていない。
7.一生乗るつもりである。
少しでも傷みが少なく、部品調達が容易な最終型が欲しかった。
8.乗るからには最上級グレードに。
実に単純明快な理由であるが、これが一番なのかも知れない。
9.やはりDOHCに乗りたい。
117を詳しく知らない人でも、「これDOHCかい?」と聞いてくることがある。他人のこだわりは関係ないのだが、私自身の価値観も「117+DOHC=ステータス」なのである。
これらの色々な自己の欲望が織り混ざった結果、選択肢が絞られてしまったのでした。
昭和62年8月、当時勤務していた会社の社長が、出張先へ向かう途中の国道沿いで偶然85万円という値札を貼った1台のXEを見つけ、私に知らせてくれたのでした。早速連絡をすると、まさしく55年式のXEで、車の美装会社社長の個人所有のものを、本人自らが自宅前で売りに出していたのでした。初年度登録は55年6月、走行距離は8.5万kmでした。
第3号 (55年式XE) |
即購入を決めました。色は元々赤だった様ですが、私の第一希望であった、純正のババリアグリーンよりも青の入った濃緑色のメタリックで、本人が自ら調合、塗装したというボディーカラーは、「ワンダフル!」の一言。
しかも、この車の弱点の一つであるフロントスカートは、FRPで補強されていました。
当初、シャンパングリーンのエンケイ・MAGホイール(5.5J-13)を履いていましたが、これを冬タイヤ用にして、夏は友人から貰った2ピースメッシュ(6J-14)のVolk-Racingを履くことにしました。
本当は第1号に付いていたクレガー・ワイヤーを、第2号同様に引き継いで履こうと考えていましたが、知る人ぞ知る、昔の(今も?)クレガーは、価格こそ高価なワイヤーホイールの中でも最もお手頃ですが、クロームメッキの下は鉄の塊。117の貧弱なサスペンションはこの重さに負けて、発進・停止を繰り返す度に車体が前後に振動するのでありました。
「いつかはワイヤー」の念を胸に貧乏な若造の私は、最低でも20万は飛んでいくワイヤーホイールを断念したのでした。
また、間もないうちに、マフラーの傷みが激しいことに気が付きました。思えば第1号も第2号もマフラーを新品交換してもらっている。年数が経っているからしょうがないのかも知れないが、5、6万キロの走行距離だった2台でも「交換」というのは、ちょっと弱すぎではないだろうか。
私は純正を捨て、社外品購入を決断しました。
マフラーといえば「フジツボ」。私には他に選択肢などありません。問題はまだ117用があるかどうかだけでしたが、在りました。50.8φ117クーペ用、5万5千円。
"フジツボサウンド"は最高でした。当時は社外品=車検だめ→車検用中古の確保、が当たり前でしたが、それを差し引いても満足の行くエキゾーストノートでした。音は純正品に比べてかなり大きいです。どちらかと言えば「うるさい」部類です。しかし、私は経験上、うるさい車は静かな車に比べて明らかに、歩行者の(特に子供の)飛び出しを予防できる事を知っています。「クルマが来るぞ警報」を鳴らしながら走っているようなものなのですから。
特に子供は、道ばたでボール遊びをしていても、クルマが近付くと、こちらを見もせずに、道路を空けます。これは言うまでもなく、耳でクルマの接近をイメージしているからです。
逆に私は、自分のクルマを工場に入れ、代車に乗っていたある日、私の車の接近に気付かずにトラックの影から飛び出してきた自転車と接触事故を起こした苦い経験もあるのです。(幸い大事には至りませんでしたが)
こういった意味でも私は「うるさいマフラー」擁護派です。
話が少し逸れましたが、私はこの第3号に一生乗るつもりでいました。悪夢のようなあの日が来るまでは・・・・。
※第3号さよなら事件
丁度1年程経った昭和63年の初夏のある日、私は取引先との打合せのため、自分のクルマを走らせていました。と、その時、左前方の札幌陸運支局から一台のセドリックが出てきたかと思うと、私の進路を完全に塞いで止まってしまったではありませんか。対向車がいたため、私は行き場を失いそのままセドリックの運転席部に「ドン!」。
私の第3号はそれっきりエンジンに火が入ることはありませんでした。
相手のジジィは血を流しながら私に向かって「人身(事故扱い)にしてやる」と大声でわめき散らしている。誰の目から見てもこの事故の原因を作ったのはジジィの方。彼の過失の方が大きい事は判り切っているのに・・・・。
そのうち警察が来て現場検証を終えてもまだジジィは騒いでいる。 そこで警官からジジィへの一言。
「人身扱いにするのならそれでも構わないが、その場合、処罰の対象になって前科付くのはアンタの方だよ?それでもいいの?」
以後ジジィはとても寡黙な人となった。私はこの時初めて「おまわりさんていい人だ」と思ったのでした。 |
結局私の第3号は二度と戻ってきませんでした。衝突でエンジンが動いてしまっており、修復不能状態で廃車処分となったのでした。
しかも、相手のジジィは保険に入っておらず、そのとばっちりを食らった私は大きな損害を受けました。クルマは無いわ、保険料は上がるわ、ローンは残るわで、恐らくこの頃の私の額には黒い縦線が一杯入って見えたに違いありません。
3号のラジエーターから緑色の血が流れ出ていた光景が、今でも時々脳裏をかすめることがあります。
一生手放す気の無かったクルマだけに、悔しくてなりませんでした。
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